父子家庭で社長の日記

父親として、2代目社長としてして、人間万事塞翁が馬だと思うことを書き綴ります。

会社の事

昨日は家族構成について書きましたので、今日は会社の事を書けたらと思います。

 

うちの会社は、私の父が35年前に東京にあった会社から独立暖簾分けをした会社です。

35年前というと、ちょうど日本が右肩上がりに成長していた頃ですね。

その頃の会社の事は、私も詳しくは知りませんが

10人未満ではあったものの、数多くの大手企業様とお取引きもあり

商社という枠では収まらず、工事案件やメンテナンスなどもしながら

苦労を社員と分かち合いながら、ガンガン進んで行ったのだと思います。

 

私が入社したのは20年前で、その頃にはすでに社員数は30人弱で

営業で成績が優秀(稼いでいるものが、大きな声を出せる)で

大手優良企業様を顧客に持っている人間が稼げる仕組みでした。

回りからは現在程ではないものの、売上も利益も地元商社として認知され

知名度も地域の同業他社からもライバル視させる企業になっていました。

 

私が入社した時の社員番号は、157番目。。。

会社にいるのは、28人(役員含め)。

つまり、15年の間に100人以上辞めている会社だったのです。

 

私は、そんな会社に前職の建築業から設備営業として入社しました。

会社の同年代の社員は、総務経理にいた1人を除き

話さえまともに出来ない人ばかりでした。

社員同士で、腹の探り合い、嘘をつく、騙す、脅す、ゆするが横行していて

私は、そんな中で朝は6時に出社、夜は午前12時を回る日が連日続き

土日もなく、工事の立ち合いを行い、年間休日は30日も無っかったと思います。

もちろん、いまみたいに残業代など法的な整備もされておらず

まぁ。宣伝で「24時間戦えますか?」と言っている時代でしたから

社会の空気がそうだったのでしょう、私もそれが当たり前と思っていました。

働いても、達成感は無く、無気力なまま、目の前に転がってくる仕事を

片付けているだけでした。

こんな会社にはいたくないと思う反面、父親からは次期社長として

この勉強会に出ろ、講演会に行け、研修に行け、仕事は当然待ってくれず

研修中にもこなし、帰社してからこなしていました。

 

そして、体が悲鳴をあげはじめ、幻聴まで聞こえ、起き上がるのもやっとで

数ヶ月の間に過食から激太り、体重は120kgを超えました。

それでも会社の為、社員とその家族の為と言う義務感を押し付けられ

無理をして働き続け、周りの声も、家族の声も、何も聞こえない日々

正直、いま思い返しても、あの時の記憶が蘇りません。

数年間会社を離れ、農業をやり始め、農作物を通して

人との繋がりや、感情を取り戻していけました。

 

ただ、そこにも父と会社の影響が残っていて、結局は雁字搦めに

縛られていました。

 

そして、社長と言う立場を株の譲渡によって引き渡され

売れない株と同時に贈与税3000万円が重くのしかかり

10年かけて築き上げてきた、農業の実績も壊されてしまいました。

 

引き継いだ株の会社は、現在も父が実質的に支配しており

私は長年のストレスから、甲状腺が腫れて痛みが出るため

治療と療養をしていて、会社には体調の良い時に出社しています。

 

正直な気持ちは、売却して借金や柵から解き放たれたい気持ちです。

 

会社の事を書こうと思っていたのですが、私の社歴になってしまいました。

現時点では、息子には会社を継がせるつもりは全くなく

同じ道は歩ませたくありません。

まぁ。同じ道になるかはわかりませんが、株を引き継ぐ時に

日本国にいる以上、相続税はかかるので借金はできるでしょうから

それは避けたいと思っております。

 

私の代わりに、社長となれる人物の育成、それをできる人を雇い入れて

ホールディング会社に株を集め、そこの代表になるのが理想ですが

いまはまだ先の話しですね。

 

今日はこの辺りで終わりにしておきます。